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2024.01.22

コイン解説&写真

チェコスロバキア

存在しない国のコイン『チェコスロバキア 聖ヴァーツラフの5ダカット金貨 ②』

みなさんごきげんよう、アンティークコイン投資家の葉山満です。

前回に引き続き『1933年 聖ヴァーツラフの5ダカット金貨』について今回はチェコスロバキアの歴史等についてお伝えします。チェコスロバキアが分離するまでの歴史についても簡単に解説していきましょう。
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チェコとスロバキアが1つの国になるまで

チェック人とスロバキア人は両方とも西スラヴ系でかなり近い民族です。チェック人はボヘミア王国建国し、スロバキア人はマジャール人のハンガリーからの支配を長く受けていました。近しい民族ですが、チェコとスロバキアはもともと別の国です。

その後、ボヘミアの王位とハンガリーの王位をポーランドのヤゲウォ朝が継承します。1526年、ヤゲウォ朝のラヨシュ2世が戦死したため、王妃マリアの兄であるハプスブルク家のフェルディナント1世が王位を継ぎました。これによって、ボヘミアとハンガリーはハプスブルク領となり、ハンガリーの支配を受けるスロバキアもその中に入ることになります。つまり、ボヘミアとスロバキアはハプスブルク領としてオーストリア帝国に組み込まれることになりました。(画像:フェルディナント1世)

18世紀末のフランス革命が周辺諸国に波及し、ボヘミアとスロバキアでも独立の気運が高まります。1848年には「諸国民の春」というナショナリズムの高揚が起こり、ボヘミア民族運動やハンガリー民族運動などが起こりました。しかし、オーストリア軍に鎮圧されてしまいます。

1866年になると、オーストリアが普墺戦争でプロイセン王国に敗北します。多数の民族を統治する多民族国家であったオーストリア帝国では、戦争への敗北をきっかけに独立運動が高まります。当時の皇帝であるフランツ=ヨーゼフ1世はハンガリーの形式的な独立を認め、「オーストリア=ハンガリー二重帝国」となります。皇帝は1人ですが政府と国会はオーストリアとハンガリーに分かれており、形式的には独立した状態でした。しかし、チェック人とスロバキア人は依然として支配下にとどまっていました。

1918年にオーストリアが第一次世界大戦に敗北すると、民族運動の高まりもあり、戦争に勝利した同盟国からチェコスロバキア共和国として認められます。こうしてチェコとスロバキアは1つの国として独立することができました。

チェコスロバキアが分離するまで

第二次世界大戦におけるドイツの支配や、終戦後のソ連からの圧力による社会主義国化など、チェコスロバキアは支配される側として苦しい歴史を歩んできました。民主化と国家分離が実現したのは、比較的最近のことでした。

厳しい弾圧もありましたが、1960年代に入るとチェコスロバキアの民主化運動が表面化していきます。しかし1968年の「プラハの春」はソ連などの介入を受け、革命は実現できませんでした。

その後、ソ連でゴルバチョフによるペレストロイカが始まり、チェコスロバキアの政権が時代遅れであることが示されました。今回は他国の介入を受けず、1989年に民主化運動の指導者ハヴェルが当選し、チェコスロバキアは民主化されました。これを「ビロード革命」と言いますが、無血で民主化が達成されたことが称えられています。(画像:ゴルバチョフ大統領)

民主化が実現した後、民族主義的な声が高まり、チェコとスロバキアの間に対立が生じるようになりました。西スラヴ系で民族的には近いと言っても、チェコは経済が進んでおり、スロバキアは農業地域で後れを取っており、格差は埋まらなかったのです。1992年にチェコとスロバキアは別々の国になりましたが、両者の分離は円満離婚とたとえられています。

チェコとスロバキアが1つの国だったのは、1918年から1992年までの短い期間です。聖ヴァーツラフの5ダカット金貨が人気なのは、100年も存在しなかった国だから、というのもあるでしょう。

まとめ

チェコスロバキアで使われていた聖ヴァーツラフの5ダカット金貨について解説してきました。現在は存在しない国のコインというプレミア感があり、ぜひコレクションしたい逸品です。

コレクションするとともに、チェコスロバキアの歴史にも目を向けていただければと思います。

みなさんにアンティークコインで幸あれ!