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2024.03.13

古代

コイン解説&写真

成功への第一歩!アンティークコイン投資・国の知識を深めよう「古代ギリシャ編②」

みなさんごきげんよう、アンティークコイン投資家の葉山満です。

前回に引き続き古代ギリシャについてお伝えします。

今回は、一番現代に関係があるとお分かりいただけるオリンピックの起源などについてお伝えします。

オリンピックの誕生

4年に1度開催されるオリンピックの起源は、古代ギリシャのオリンピア祭典競技です。当時は全能の神ゼウスを祭るために行われた祭典でした。
(画像:ゼウス神殿に置かれていたと言われるゼウス像)

古代のオリンピックで最初に行われた競技は、約191メートルの距離を走る徒競走でした。長さは「スタディオン」という単位を用いて1スタディオンと表現され、1スタディオンはゼウスの600歩分に相当するとされたそうです。

4年に1度開催されるようになった理由は分かっていないのですが、太陰暦を使っていたからとする説が有力です。古代では8年に1度開催されていたのですが、太陽暦での8年は太陰暦で8年3ヶ月となるので、この差を利用してオリンピックを開催していた、とする説です。しかし3ヶ月はオリンピックの開催期間には長すぎたため、4年が経過するごとに1ヶ月から2ヶ月の間、オリンピックを開催するようになった、とされています。

代表的なポリス① アテネ

古代ギリシャの代表的なポリスを2つ見ていきましょう。まずはオリンピックの聖地としても有名なアテネです。

アテネは貴族政から民主政に移行したポリスで、特権階級しか知らない法律を市民にも分かるように書き換えるなど、民主政が敷かれていました。世界で初めての民主主義としても知られているポリスです。

アテネでは直接民主主義がとられ、市民が法律や法案に対して賛否を直接投票しました。現代の日本など多くの国では、市民が選んだ議員が法律や法案の採決に関わる間接民主主義のため、市民が法律や法案に直接関わることはありません。直接民主主義は人口が多い国では難しいのですが、ポリスのような小規模な国家であれば可能です。とはいえ、紀元前に民主主義の仕組みができていたことは特筆すべき驚きです。

直接民主主義と言っても、市民全員が政治に参加できたわけではありません。投票者は大人の男性に限られ、女性や奴隷には投票権はありませんでした。投票権があったのは、アテネに住んでいる人の3割未満であったと言われています。

ちなみにアテネには銀山があり、銀が豊富に採れました。そのため、古代ギリシャのコインには銀が使われています。

代表的なポリス② スパルタ

(画像:スパルタの劇場跡)

スパルタも有力なポリスで、名前を知っている方も多いでしょう。子どもに厳しい教育を行うことを指す「スパルタ教育」は、ギリシャのポリスであるスパルタに由来しています。

というのも、スパルタは軍国主義で子どもたちを屈強な戦士に育てるため、厳しい教育を行ったからです。男子も女子も戦士として訓練され、ケガや病気をした者は処刑されるなど、かなり極端な方法で最強の軍隊が作られました。

後述するペルシア戦争では、圧倒的に人数で勝るペルシア帝国に対し、スパルタ軍を含む少数のギリシャ軍が勝利することができました。スパルタの軍事教育のたまものであると言われています。

古典時代

古典時代は、紀元前5世紀頃から紀元前350年頃までの時代区分を指します。ペルシア戦争によって大国アケメネス朝ペルシアに勝利するものの、ペロポネソス戦争によってポリスが衰弱し、ギリシャは衰退していきました。

ペルシア戦争

アテネとスパルタはペルシア帝国との戦い「ペルシア戦争」で戦い、ペルシア軍を撃退しました。歴史的に見ると、民主政と王政の戦いであり、民主政の勝利と呼ばれています。実際、アテネではさらに政治制度を発展させ、豊かな国へと成長していきました。

ペルシア帝国が再び侵攻してくる可能性に備え、対ペルシアのためにポリスが同盟を結びます(デロス同盟)。本部はデロス島に置かれましたが、有力ポリスのアテネの支配力が高まって「アテネ帝国」とも呼ばれる状態になりました。

スパルタにとっては面白くない状況で、アテネとスパルタの関係は悪化していきます。

ペロポネソス戦争

アテネとスパルタの対立は激化し、ペロポネソス戦争に突入しました。スパルタが勝利を収めたものの、約30年にわたって続き長期化したため、アテネもスパルタも疲弊してしまいます。

この戦争はポリスが衰退するきっかけとなってしまいます。次々に他のポリスも力を失って衰退し、ポリス社会は崩壊状態になってしまいました。

次回は代表的なコインなどお伝えします。

みなさんにアンティークコインで幸あれ!