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コラム

2023.11.22

チェコスロバキア

成功するアンティークコイン投資・国の知識を深めよう!「チェコスロバキア編③」

みなさんごきげんよう、アンティークコイン投資家の葉山満です。

前回に引き続きチェコスロバキアの歴史をお伝えします。

プラハの春から民主化

1960年代に入ると、チェコスロバキアの民主化運動が起こります。共産党が民主化に乗り出し、新たな共産党行動綱領を作成して、国民の政治参加や検閲を廃止した言論や表現を保障する「人間の顔をした社会主義」を目指しました。これが「プラハの春」と呼ばれる出来事です。

しかし、これを反社会主義運動として警戒したソ連や社会主義国が牽制を行います。ソ連を中心とする5ヶ国の軍が一斉に国境を越えて侵攻し、首都プラハを占拠しました。これが100人以上の死者を出した「チェコ事件」で、プラハの春は踏みにじられる結果となりました。
(画像:ゴルバチョフ大統領)

その後、社会主義に戻すことを「正常化」とし、ソ連の指示に従って体制を元に戻しました。ところが1985年からソ連で「ペレストロイカ」というゴルバチョフ政権の改革が勧められ、社会主義の問題点が明らかになります。社会主義そのものの否定ではありませんが、チェコスロバキアの民衆にも大きな影響を与えました。

再びチェコスロバキアが民主化するのは、1989年のことです。このとき、周辺のポーランドやハンガリーは民主化が進んでおり、むしろチェコスロバキアの共産党は時代遅れとなっていました。(画像:ベルリンの壁)

1989年に、プラハの春を率いたドプチェクが共産党政権に再び民主化を要求します。プラハでは1万人を超える集会が開かれ、共産党政権の打倒が叫ばれました。ベルリンの壁崩壊の知らせが届くと民主化運動は活発になり、ついに共産党が政権を辞任しました。無血の運動によって民主化を実現したこの出来事は、「ビロード革命」とも呼ばれています。

チェコとスロバキアの分離

チェコとスロバキアの分離は、西側メディアには「ビロード離婚」と呼ばれています。「ビロード革命」にかけた呼び方ですね。実際、両国の分離は流血や暴動を伴わず、非常に穏やかな「円満離婚」でした。

1989年にはチェコ共和国とスロバキア共和国の連邦共和国となりましたが、1992年に両国で分離派政党が勝利すると、連邦解消が進められます。わずか半年足らずで分離し、1993年にはチェコ共和国とスロバキア共和国となりました。

分離の背景には、両者の違いや格差がありました。チェコは工業も文化も進んだ先進的な国でしたが、スロバキアは農業中心で、産業や文化はチェコに遅れを取っていました。チェコがスロバキアを指導する立場になりますが、スロバキアにとっては大きなお世話です。チェコとしても、スロバキアがいなければもっと経済発展できるのに、と鬱憤を募らせます。

これだけ積年の不和があったのに円満に分離できたのか、と驚くのですが、分離した後の方が両者の関係は良好なようです。もともと同じ民族だったこともあり、根本では仲間意識があるのかもしれません。

まとめ

チェコスロバキアのコインと歴史について解説してきました。支配される側、戦争に巻き込まれる側なので、強国とは異なり辛抱の歴史と言っても過言ではありません。しかし、音楽家のスメタナや画家でイラストレーターのミュシャなど、優れた芸術家を輩出してきた歴史もあることを、最後に補足しておきます。

1993年にチェコとスロバキアに分離したので、「チェコスロバキア」は現存していません。今は存在しない国の遺産を愛でることができるのも、アンティークコインを集める楽しみの一つですよね。

みなさんにアンティークコインで幸あれ!